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2009-11-08

「石橋湛山②」

 昨日7日は次女の誕生日で、家族で祝うのは今夜になりましたが、実は2人で仕事(カウンセリング)が終わった後、お寿司を食べに行ってきました。

 

 面白いのは、今日はイタリアンになったのですが、次女は実はお寿司が大好きで、昨日私に「今日2人で行こう!」となったのです。私も即断。何故ならば「5人で寿司は高い!}(笑い)

 

 そこでは、生まれた日の事を話したり、最近の様子を聞いたり・・・楽しい時間を過ごしました。主人と長男たちは昨日は「古武道」の稽古。安心して出かけたわけです(笑い)。  美味しかった~♬

 

            * * * * * * * * * *

 さて、石橋湛山ですが、何故急に彼の事を思い出したのか・・?実は自分でもよく分かってはいないのです。ただ、この所の総理たちから、岸信介、吉田茂、そして鳩山一郎・・・と戦後の内閣総理大臣たちがよく私の耳にも入ってきていたのは、その理由の一つかもしれません。また、今こそこの石橋湛山の考えが今の日本にも必要なのかと考えたからかもしれません。歴史は繰り返す・・・今の状況と良く似ている気がします。どうしても今ご紹介したくなったのです。

 

 私が石橋湛山の名前を覚えていたのは、戦後のあの状況の中で、しっかり自分の考えを言っていた勇気ある人物、ということでした。彼は第55代の内閣総理大臣。自由民主党総裁でした。今までの短命内閣は3番目という65日の在職期間でした。

 

 エピソードもかなり残っているようですが、日蓮宗僧侶の息子として生まれるも、10歳で預けられ(何度も両親に手紙を書くが返事は一切なし)、しかしその預けられ先の望月師に感謝し幸福だったと回顧している。(あのまま実父に育てられたらそのあまりの厳格さに自分はしくじったかもしれないと述べている)

 

 また2度の東大受験に失敗し早稲田に入学→卒業後、島村抱月の紹介で毎日新聞社入社(現在の毎日新聞とは無関係)→兵役→東洋経済新報社に入社。

 

 ここで大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人になり、この時代にいち早く「民主主義」を提唱。「小日本主義」を唱える。この時代に朝鮮における独立運動に理解を示したり、また台湾・朝鮮・満州の放棄を主張したのだ。行政面でも「中央集権、画一主義、官僚主義」との訣別を主張。

 第二次世界大戦では息子を失うも、戦後すぐに論説「更生日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいをする先見的な見解を述べている。(同じくして「靖国神社廃止の儀」も述べている)

 

 その後政界にはいるわけだが、ここでも何かと面白い。自由党から総選挙に出るも落選。だが、第1次吉田茂内閣に大蔵大臣として入閣し、デフレーションを抑えるためにインフレーションを進めて復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進。(経済リフレの元祖が石橋湛山なのだ。

 *経済リフレ(リフレーション)とは、結果物価は高騰するが、それに伴って生産は増加、また全体としての国民の実質収入や、生活程度が向上するというもの(今のものが有り余っている(と思っている)時代にも通用するのか、は私には分からないが)

 

 また、GHQとも対立。なんと敗戦国日本は当時の進駐軍経費を負担していたのだが、なんと日本の国家予算の三分の一(ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品経費なども)!それを、この巨額の負担を下げる為に石橋湛山は、アメリカに要求したのだ。アメリカは諸外国の評判を気にして2割の削減を了承。

 

 この事で石橋は、国民から「心臓大臣」を呼ばれたが、アメリカからは嫌われ、総選挙で当選するも「公職追放令」で追放される。1951年に解除後、吉田茂の政敵であった自由党の鳩山一郎の幹部として打倒吉田となる。(この所の詳細は私には分からない)

 

 第1次鳩山内閣で通商大臣に就任。ここでの活躍も凄い。中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復を主張。だが、アメリカからの猛反発を受ける。「アメリカの意向は無視しましょう」とアメリカの強硬姿勢に動揺する鳩山一郎に言う。そして1955年、日中輸出入組合を結成して中国との貿易を軌道に乗せた。

 

 そして鳩山一郎の「日本民主党」と吉田茂を継承した緒方竹虎の「自由党」を合同した「自由民主党」が結成され、石橋湛山は入党する。

 

 ここで彼は「人類を救わんとするならば、我々は軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と冷戦の平和解決と軍縮を主張した。

 

  鳩山一郎引退後、アメリカ追従を主張する岸信介に対し、石橋湛山は社会主義圏とも国交正常化することを主張して立候補。岸信介優勢だったが、石井光次郎と2,3位連合を組み、決選投票では7票差で総裁選に当選した。

 

 親中派であった石橋湛山政権の樹立は、日本を反共の砦にしたいアメリカにとって(アイゼンハワー大統領)は狼狽したという。

 

 その後は、全国10か所を9日間で回ったり遊説を観光するが、結局軽い脳梗塞にかかり「政治的良心に従う」と潔く退陣した。日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け「政治家はかくありたい」の述べたという(どこぞの議員さんに聞かせたいですね~)

 

 退陣後も若干の後遺症は残ったものの、また政治活動を始めた石橋湛山は訪中し、政府の一員でなかった石橋湛山はなかなか当時の周恩来首相に会えなかったそうだが、結局は双方の意見が一致(石橋は「日中米ソ平和同盟を主張。中国はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになると考えた)。この声明がのちの日中共同声明に繋がったと言われている。

 

 この後も日米安保条約改定に批判的な態度をとったりの石橋湛山だったが、1963年の総選挙で落選。政界から引退し、その後は立正大学学長となるが88歳で亡くなる。

 

               * * * * * * * * * *

 

 長い分になりましたが、まだまだ沢山書きたい事はあるのです。何が言いたかったか?・・・良く分かりません。しかし、この石橋湛山という人の考え方は、今の政治家の人たちがなかった、というより見ないようにしてきた、何か大切な事があるように思います。

 

 政治も経済も行政も、それは「人」にかかっています。それを扱う人がどの様な人なのか、その人が「何を大切にしているのか」だと思います。 石橋湛山は、「平和」「公平」を愛した人だと私は思います。 

 
                ☆ 本気で戦争反対し平和、公平を願う  菅野康子でした ☆

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