- 2011-04-28 (木) 8:47
- 菅野康子の「夢」「願い」
もっと、インパクトのあるタイトルをつけて、一人でも多くの方達に読んで頂ければ、と思ったのですが、ありのままに「被災者日記」とつけました。この日記を書いた方は、私の親しい友人の妹さんです。看護師学校に通っていらっしゃる方で、石巻で地震、津波に遭われました。その時の様子、その夜、翌日・・・そしてその間の、どんな状況で、どんな事をし、何を想って、何を感じたのか、などを綴っています。
読みながら、かつて多くの災害で遭われた方たちから私が聴いていた事なども、実際に経験してその時の様子なども書かれてあり(報道はされない内容など)、この方の「正直に書き、そしてこうして日記としてアウトプットする」ことは、この方の強さ、これからの生き方に現れていくと思っています。
これをご覧になった方が、これからどんな想いを持って生きていかれるか、のヒントになると思います。「使命とは・・それまで感じていた漠然の想い・・・」など。きっと心ある(裏も表も感じられる)素敵な災害看護師さんになられると思います。
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「題 わほ」
とても長い日記です。お気をつけあれ。
ということで昨日は石巻でした!
緊張したけど、友達もいたしメンタル面も問題ありませんでした!
石巻の大学の教室を借りて、一日かけてオリエンテーション。今年は殺人的なスケジュールになることが判明。あぁ・・そうでしょうよ。
田舎の大学は敷地が広くてねー桜も見頃でなんだかまさにキャンパス☆って感じでした。
石巻の町は相変わらずでした。冠水しているところもまだまだあるし、車が通れるように道路から瓦礫が除かれていたけど、瓦礫を歩道側に寄せただけの応急処置って感じ。瓦礫は高く高く積み上がっています。
空気は少し埃っぽくて、潮の臭いもしました。普段はそんなことありえないのに。
たくさんの車が原形を留めず丸焦げの状態で折り重なり、家々は跡形もなく消え去り、障害物がなくなった町では見えるはずもない遠くの景色を見ることができました。
私が石巻を脱出したときは、船や倒れた電線で道路はふさがれ、まだ完全に水がひかず、膝までありました。あの時の光景に比べたら、だいぶ良くなっていました。
私がお世話になった友達の家はライフラインも復旧していて、家の中にいればここが石巻だなんて思えないほど通常な生活を送ることができます。でも、ほんの数10 メートル進めばそこは恐ろしい光景が広がっていて、その平和と地獄の共存に戸惑いました。
地震の瞬間、私は学校にいました。二年生最後の病院実習を二日前に終え、自習の時間を使い実習記録をまとめていました。先生が「外へ出なさい!」と叫び、私は「そんな大げさな・・」なんて思いながら二階から校舎の外へ走りました。外は吹雪、町にはとぎれとぎれにサイレンが鳴り響き、車や人々がせわしなく行き交い、そんななか私たちはわけもわからず外で待機していました。どれくらいの時間、そうしていたのか憶えていませんが、急に上のほうから男性の叫ぶ声が聞こえてきました。
「逃げろ!走れ!津波がそこまできてるぞ!早く!」
緊迫したその声を聞き、やっと事の重大さを理解しました。とにかく全速力で走れ、と教員、学生で近くの小学校を目指しました。学校の前の道路は渋滞でした。小学校への道すがら、たくさんのお年寄りがいました。私たちはその人たちの手をひき、車いすをおし、背負いながら走りました。心臓が破裂するくらい走りました。やっとの思いで小学校に着き、階段を上りました。二階に上がる途中の踊り場からはものすごい勢いで町を駆け抜ける黒い濁流が見えました。ゴォォーという轟音、無数の車の電気系統が壊れクラクションがいたるところで悲鳴のように鳴り響いていました。聞いたこともないような恐ろしい音でした。津波は自分がいる高さとほとんど変わらないような水位でした。その瞬間、「あぁ、これで終わりか。死ぬんだな。」と思い、怖さと虚しさと後悔、懺悔、感謝、色んな感情が込み上げてきました。
とにかく上へ、一段でも高く上へと目指し、三階へあがりました。最初の方の人たちは屋上まで行けましたが、私は最後尾だったので三階がやっと。何百人が一斉に階段を上がったらそうなるのね・・。三階で大丈夫かななんて不安を持ちつつ、とりあえず助かったことに安心しました。しかし、目の前で流されていく家や車や人々を目の当たりにし、あのとき渋滞だった、たくさんの人が避難の途中だった・・とすぐにまた恐怖が襲ってきました。そばにいた友人と抱き合い、「今はなにも考えない。余計なことは考えない。私たちは看護学生だから、やらなきゃならないことがあるよね。」とお互いの気持ちを奮い立たせました。
それから私たち学生と教員は避難所で救護室をつくり、体調不良者、高齢者、けが人などを介抱するボランティアとして活動しました。
一日目の夜、たくさんの人が運ばれてきました。その人たちは皆、津波に流されるも運よく助け出された人たちでした。吹雪の中、数時間も水につかり、全員が重度の低体温症でした。呼吸困難に陥り、自力で立つこともできず、身体は泥と油と海水でドロドロでした。そんな人たちが次から次へと運ばれてきました。
すぐに濡れた服を脱がせ、全裸にし、小学校のカーテンで身体をくるみ、体温を上げるために10人単位でひたすら身体をさすりました。電気も水もない。学生の私たちにできることは自分の両手でひたすら身体をさするだけ。己の無力さにとてもとても悲しくなりました。今まで勉強してきたこと、習得した技術も環境が整わなければ発揮することができないのだと、虚しくなりました。
体温の上昇とともに、意識も呼吸も安定してきた人たちはそれぞれ思い思いに「その瞬間」を私たちに語りだしました。
「私は車ごと流されたけど、なんとか脱出できてたまたま学校のフェンスに引っかかったの。息子を迎えに行きたくて。息子は無事かしら」
「目の前でばあさんが流された。足の悪いばあさんだから。若い人がおぶってくれたんだけど・・みんなダメで俺だけ助かってしまった。すまない、すまない」
涙を流しながら語ってくれるその一言一言があまりにも重く、なにも返答できずただ「そうだったんですか」と聞くことしかできませんでした。
水も、毛布も食べ物も情報もなく、一日目の夜は真っ暗な中、いたるところで発生した火災でオレンジ色に光る不思議な町の光景を見ながら、不眠不休で運ばれてきた人たちの身体をさすり続けました。
二日目、期待していた救助は来ず。相変わらずなにもない状況でした。誰もが疲弊し、絶望し、先の見えない状況を嘆いていました。
だけど、そんな中で私たちが頑張れたのは、「目の前の弱者を助ける」という明確な使命を実感していたからだと思います。赤十字の学校なのでイヤになるほど「人道」「平等」など理念を聞かされていました。普段は「あっそ」という感じで聞き流していたはずなのに、なんだかんだでしっかりとその精神は学生に植えつけられていたようです。すごくかっこつけてるように聞こえるかもしれないけど、この使命感がなければ、私はとっくに精神崩壊していたと思います。
水もなく、床は泥だらけで不衛生、救助がくる見通しもない。目の前にいる体調不良者になんの治療、手当て、薬も提供することができない。そんな中で平常心を保つということは並大抵のことではありません。
私が一番つらかったのはトイレでした。水が出ないのでトイレは流れません。つまり、どんどん上に汚物を重ねていくしかないのです。避難者1300人分の汚物です。一日で便器はいっぱいになりました。避難所の責任者から学生にトイレ掃除の要請がありました。教員は「それは学生の仕事ではない。なぜそんなことをさせるのか」と抗議してくれましたが、その時はもう誰かがやるしかない状況で、覚悟を決めました。
手袋はなく、穴があいているかもわからないコンビニの袋を両手にはめて、便器が見えないほど積み重なった汚物をゴミ袋に少しずつ移しました。ある子は黙々と、ある子は号泣しながら、必死に、ひたすら異臭に耐えながら作業しました。普段は患者さんのオムツ交換や排泄介助で何も思わないのに、さすがに手も洗えない状況で、汚物をすくうという作業は精神的に大ダメージを受けました。
学生はローテーションを組み、一時間睡眠をとったらまた看護、という感じで限界がくるまで避難所にいる人たちのお世話を続けました。
三日目の朝、やっと自衛隊のヘリが来ました。水、食糧を少々・・しかし全然足りず。ニリットルのペットボトルを90人で飲みました。ほんの一口だったけど、本当に美味しかった。この日から徐々にお迎えが来るようになり、たくさんの学生が親元に帰っていきました。だけど学生が減ることで、ローテーションの間隔が短くなり、残された学生と教員は、より一層負担が大きくなりました。私も「そろそろやばい」と思い始めていました。使命感マジックもそろそろ限界でした。
四日目の朝、仙台から友達の彼氏が迎えに来てくれ、私は一緒に仙台に行くことになりました。
まだクラスメートも教員も頑張っている中で自分だけ帰ることはできないと思いましたが、先生は「これからが大変なのよ。帰れるときに帰りなさい。ここは大丈夫だから」と言ってくれ、私は仙台に行くことにしました。解放される嬉しさよりも、最悪な環境の避難所に皆を残していかなければならない罪悪感の方が勝っていました。
「町を歩くときはきょろきょろしちゃだめよ」と帰り際に言われました。
なぜなら、車の中や瓦礫の下にはたくさんのご遺体があったからです。瓦礫をかき分けながら、変わり果てた町の中を歩き、仙台へ向かいました。
私は今回の体験で自分のことを「偽善者」だと思いました。私が避難所で頑張れたのは自分の為でした。誰かのために自分を犠牲にすることで、強者と弱者の関係性を作りだし、自分が強者になることで精神的安定を図りました。目の前の人を助けたいという純粋な気持ちや使命感もあったけれど、それだけでなく、自分が少しでも正常でいられるように出来うる限りの「善」を振り撒きました。結果的に、それで助かった人がいたならばそれはそれでいいのでしょうが・・。
私が看護の道を目指した色々な理由の一つに、「いざというときに、助けてもらう側ではなく、助ける側の人間でありたい」というのがあります。いずれは災害看護に携わりたいなと漠然と考えていました。まさか、学生のうちにまさにこの「災害看護」を体験することになるとは。きっとこれは運命だと思うことにします。災害看護への思いは漠然としたものでしたが、今回の経験がきっと将来役に立つと信じて、災害看護のスペシャリストを目指す、覚悟が出来ました。
こんな大災害は二度と起きてほしくはないけれど、いざというときに私のパワーアップした「偽善」がたくさんの人を救うことが出来るよう、その時まで頑張って勉強します。
この日記に書いたこと・・震災で見た光景や、思ったこと、発言したことはすべて真実です。自分でも映画やドラマみたいだなって思いながら避難所生活を送っていました。人間は窮地に立たされると映画やドラマのような言葉が出てくるもんです(笑)なんか書いててクサイ発言だぜ、なんて思いもありましたが、とりあえず全部本当に思ったこと、あったことです。
あと、数秒遅かったら・・こんな紙一重が人の生死を分ける。私が今生きているのは奇跡です。生きていることが不思議です。タイミングだとか運だとか、そんなことで人の命が左右されてたまるかと言いたいところですが、今回の災害に関して言えば、助かった人とそうでない人の差はとてもとても小さいものだったと思います。
長々ととりとめもなく書いてしまいました。気持ち悪い表現もあったと思います。ごめんなさい。
読んでくれてありがとうございました。
原稿用紙何枚分かしら? 村上通信・宮城版
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もしコメントを書いて頂けるなら、まとめて友人の妹さんにお渡ししたいと思っています。励まし、正直な想い、どんな事でもOK です。どれだけこれからの支えになるかと私は思っています。
☆ この方に「光」を送り続けます・・・ 菅野康子でした ☆
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